信州 三谷城址

三谷城について その3(信州塩田を訪ねて)

三谷城址保存プロジェクトを進めるうち、鎌倉北条氏と三谷城主塩田政幸を繋ぐリンクの途中に信州塩田の地名と塩田北条氏の名前があがってきたことから、私はこの地を自身の眼と足で確認したいと思い、夏が来る前に塩田を訪ねる計画を立てていた。

平日の仕事の合間なので、6月21日から1泊で帰ってくるつもりで出かけた。東京から新幹線で上田まで1時間半、上田駅で別所線という小さいローカル線に乗り換え、塩田町という駅で下車した。塩田という場所は、幾重の山々に挟まれた盆地形状の中に田んぼの野がひろがる長閑な里にあった。駅前には、タクシーがなかったので、Google地図を見ながら塩田城址がある山(前山という)の方向に向かって歩きだしたが、片道3キロほどの道のりの往復は時間がかかると思い、途中、郵便局に寄って、地元の塩田観光というタクシー会社の電話番号を教えてもらって車で行くことにした。

すぐに来たタクシーの運転手に行先を告げると、急にモードが入ったように、向かう先の塩田城址について解説を始めた。鎌倉の北条氏の末裔の義政公がつくった山城で、鎌倉幕府が滅んだ時に、子どもたちは鎌倉にかけつけたが戦いに敗れ自害した。近くには、その親子の供養塔が城あとにあり、義政公の菩提寺である龍光院というお寺も近くにあります・・・というふうに、観光案内が始まった。
すべて私の予備知識に入っている内容だったので、城址への道筋をゆっくり見たいからスピードを落としてほしい、今言われたすべてのところをまわりたい、また塩田城から発掘した遺物を展示してある「塩田の館」というところにも行きたいと伝えた。

運転手は私の希望を承知して、今日はタクシーの台数が少なくあまり時間がないので、最短の時間で案内したいと言って、自身で一番効率のいいコースを組みますのでまかせてくださいとアピールした。

車はすぐ山に入ったところで停車して、私が戻ってくるまで待ってくれることになった。

塩田城址は典型的な山城で、山道の入口脇に立った石碑の前を通ってまっすぐの道をあがるとすぐにそれらしく思われる場所があった。ただ城址といっても、石垣や建物跡があるわけではなく、空を隠すくらいに伸びた杉の巨木に囲まれたわずかの空間があるだけで、言われなければわからないような場所だった。50年以上前に行われた遺構の発掘調査の跡も埋め戻され草が生えているだけだった。

石碑の近くにあった案内地図には、この城址の上のほうに、義政の子の国時とその子の俊時の供養塔があったが、途中には獣除けの柵がぐるりと張り巡らされていて入るのがためらわれた。

私はしばらくその場に立って、ただ山の普通の空き地にしか見えない空間を眺めていた。

資料によると、この城は、1277年鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まり、鎌倉時代に北条国時、俊時の3代に渡って塩田北条氏の居城となった。室町時代は村上氏の支配となり、戦国時代には武田信玄の侵攻により武田氏の手に落ち、武田氏滅亡後は真田氏が支配、1583年に上田城が完成、そのまま塩田城は廃城となったとされている。300年の間、何度も主が変わったが、中世城郭としては、信州最大の規模だったという。1970年に長野県の史跡に指定されている。

私がなかなか戻ってこないのが気になったのか、運転手が下から上がってくるのが見えたので、私は速足で下におりていった。

車に戻ると、運転手が少し歩いて、里が一望できるところまで案内してくれた。確かに、人家が散らばる塩田の郷が眺め渡せる場所だった。城があった当時は、大木もあまりなく、もう少し見晴らしも良かったであろう。この地に展開される余多の戦を指揮し、敵から自軍を守るには最適の地形にあったように思われた。

次に行く義政の菩提寺である龍光院はすぐそばにあった。三鱗の家紋が施された案内板の奥に黒塗りのりっぱな構えの寺があった。中に入って歩きかけた時、運転手が近づいてきて、白い手袋で指さしながら、「あそこにいらっしゃるのがたぶん住職さんだと思いますので、お聞きしたいことがあればお話しされたらいかがでしょうか」と促してくれた。私の目的を先取りして案内してくれているようだった。見ると庭の奥で住職さんとその奥さんと思われる二人が草取りをしていた。声をかけると、仕事の手を休めてくれた。

私は、単刀直入に、四国の徳島から、塩田城址を訪ねてきた、戦国時代阿波に三谷城という城があって、その城主がここの塩田義政の末裔だということがわかったのですがご存知だったでしょうか、と尋ねた。精悍な体つきの住職さんは初めて聞く話に驚くふうでもなく、「それは私も知りません。塩田北条氏は国時、俊時が幕府滅亡の折、鎌倉に駆けつけ親子ともに自害して滅んだことになっているので、その後のことはわかりません。」と簡潔な答えだった。
さらに「この寺は、1601年に臨済宗から今の曹洞宗に改宗し、別の場所からこの地に移されてきたのですが伽藍も失われ、鎌倉幕府滅亡の1333年からこの間の資料が何もないのです。従って何もわかりません。」と加えた。
幕府は滅んでも塩田北条氏は続いていたのではないですか、その証拠に阿波に塩田氏の三谷城というのがあって・・ということばが出そうになったが、私は抑えた。

仮にそうだったとしても、この塩田の地では塩田北条家の歴史はここで終わっているのだ、鎌倉幕府の終わりとともに・・と思ったのだった。

私は応対してくれた礼を住職さんに言い、奥の本堂のほうにお参りして寺を出ることにした。会話を促してくれた運転手に感謝した。

最後に見たいところがあった。塩田城址から掘り出した遺物の展示場所にもなっているすぐ近くの観光施設「塩田の館」であった。

ここで私は思いもかけないものを発見した。

塩田の館は、1967年から1977年にかけて、数回にわたる発掘調査が行われ、建物跡の礎石や空堀、井戸などの遺構とともに出土した土器や甕、茶碗、磁器、銅銭、刀子・鍔などの金属製品、砥石、塗物、将棋の駒・人形・箸状木製品などを展示してある資料館であった。

興味を持って訪ねて来る人が少ないのか、玄関に置いた展示パネルに隠れるような奥の位置に置かれた硝子棚にひっそりと数々の出土品が展示されていた。
私はゆっくりと展示品を見ていきながら、その中のひとつの資料の文面に思わず声が出そうになった。

「塩田北条氏一族について」と題するシュリンクされたA4サイズのコピー資料の最後のほうに以下のように書かれていた。

「さて、この千手観音像は、塩田北条氏伝来の観音像である。鎌倉で俊時が切腹した時、彼の妻は身重の状態であり、鎌倉幕府滅亡後に、忘れ形見となる信時を出産する。観音像は信時に伝えられ、彼の子孫は阿波に渡り、子孫は繫栄した。」

私は心の中で小躍りしながら、文面が信じられず、何度も文章を読み返してみた。
間違いなく「阿波」という文字があった。

これまでに書いてきたように、徳島の穴吹町誌には、三谷城城主の塩田政幸は塩田北条氏の末裔で、一族は美濃(岐阜)から阿波の地にやってきたと記してあった。
私は、塩田という字を見て、すぐに検索、信州の塩田城と塩田北条氏のことを調べたが、信州塩田と隣の美濃を結ぶ線がまだ見つかっていなかった。確信はあったが、証拠はなく、ひとまず塩田の地を訪ねてみようと思って今回の訪問になったわけである。

塩田の館まで私を運んでくれたタクシーの運転手にはいったん帰ってもらい、上田行きの電車が来る時間にまた呼ぶことにして、私は施設の係員(私以外人は誰もおらず外で庭仕事をやっていた)に声をかけて、資料にある「この千手観音像」についてどこにあるのか、何を指しているのか尋ねてみた。文面を読むと、説明資料のすぐ後ろにでも「この千手観音像」なるものとか写真とかが置いてあるように思われるが、それらしいものは何もなかった。係員は聞いたことがない質問に戸惑ったようで、事務所に戻って同じ文章の紙コピーを出してきたが、何もわからない様子だった。私があきらめたふうだったので、また庭に戻って草むしりを始めた。(明らかに紙資料は日焼けして反り返っていたことから、内容もわからないまま、この展示館では何年もこの資料を展示し続けてきたのだろうと思った。)

しかし、ついに見つけたこの文章である。
誰がこの資料を書いたのか、私は気になって、翌朝すぐにホテルから、庭で立ち話をした龍光院の住職さんに電話をしたが、千手観音像については何も知らないということだった。塩田に来る前に電話で問い合わせをしていた上田市役所の文化財担当のKさんという人にも再度電話をしてみたが、塩田の館にある資料の記述のことも、千手観音像のことも何もわからないということだった。
さらに、塩田の奥の別所温泉にある安楽寺や、本尊として千手観音菩薩像を祀ってあるという北向観音の寺社に電話をかけて尋ねてみたが、塩田北条家の千手観音像のことは聞いたことがないということだった。

この資料の検証は必要だろう。唐突に「阿波」が出てくることは考えられず、何らかの一次資料があるものと思われる。

そのような資料が見つかれば、俊時の遺児となった信時がどのようにして塩田を出て、隣国の美濃に入ったか、その子孫がどうやって阿波の三谷村にたどり着いたかがわかるかもしれない。
その時には、鎌倉ー信州ー阿波と3つの地をつなぐリンクのようなもの、そして古の時代と現在を結ぶ歴史の一本の糸が完成することになる。
鎌倉極楽寺の北条重時、信州塩田の北条義政、阿波の塩田政幸。各々の住む土地の移動と幾世代にわたって続いた時間の流れ。それは、切れ目ない親と子の連続であり、塩田北条家が千手観音像に託しながら380年もの長い間続いた祈りの旅路であったのではないか、などとの思いに浸りながら、私は帰路についた。

信州の塩田
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