穴吹町の三谷城について知られていることは少ない。城主は鎌倉北条氏の後裔で北条時政の十一世の子孫にあたる塩田政幸とされている。塩田といえば、鎌倉幕府の二代執権の北条義時-北条重時と続く系譜の中で、重時の子義政が信州の塩田(しおだ)に居を移し、約60年3代にわたりこの地方を統治した塩田北条氏を思い浮かばせる。その塩田一族が信州を出て阿波美馬の三谷村に流れ着いてきたのではないかと推測したが、その後美馬市穴吹町誌に塩田氏は美濃から来たと書いてあったので、この推測はほぼ間違いないだろうと思われる。
鎌倉が新田義貞らに攻められた時、塩田北条氏も鎌倉に上って戦ったが敗れ、塩田郷に残った一族は鎌倉幕府の滅亡とともに信州を追い出され美濃に逃れた。その末裔がはるか遠くの阿波の三谷村にたどり着いたのではないだろうか。そうだとすると、ここに鎌倉ー信州ー阿波を繋ぐ1本の線が見えてくる。
信州塩田の一帯は信州の鎌倉とも呼ばれていて、頼朝の時代から鎌倉との深い繋がりを有する土地であった。その塩田を経由してはるか遠くの四国の地まで、鎌倉時代の血脈と鎌倉文化の断片のようなものが流れ着いてきたのだとしたら感慨深いものがある。
実は筆者の三谷という姓は、この城の名前と同じであるが、私の父方の祖母がこの三谷村の出であり、この地名とは何らかの縁を有するものと思われる。また家系を確認すると、江戸時代には三谷の名前で脇町の稲田藩に仕えた記録があることから、遡った戦国時代につながる因縁が身近にあることになり、さらに感慨が深まる。
しかし、私はこのような城があったということも、三谷という名のゆかりもつい最近まで知らなかった。たまたま読んだ三好長慶に関する読み物や関連する資料から、脇城や岩倉城に関する情報とともにこれらのことを知ったのである。
そして、2021年の秋に、私は三谷城のあった穴吹町を訪ね、その跡地を探してみることにした。Googleの地図に誰が登録したのか三谷城の位置がマークされていた。穴吹駅からタクシーに乗って運転手さんに三谷城跡を知っているか尋ねると知らないということだったので、見当をつけて近くで下ろしてもらった。
運転手さんも一緒に下りて近くの民家に入って玄関先で三谷城跡を知っているか訊いてくれたが、地元の人もよく知らないようだった。
私はだいたいの位置だと思われる場所まで行って、すぐに帰りを待つタクシーのところまで戻った。その後、私は改めて美馬市役所のIさんという方に案内されて三谷城跡を訪れることになった。
Iさんは自身がこの三谷村(三島)の生まれで、よく地元を知っていたが、やはり「三谷城」という名前にはなじみがないということだった。ただ、近くにそれらしいところがあるかもしれないということで、あちこちにきいてくれて、だいたいの場所を特定されたということだった。11月中旬のある日、穴吹駅で待ち合わせをして、現地まで車で同行していただいた。その跡地は、前回めぼしをつけたと同じ場所だった。狭い上り道の脇に、草木の茂る台地のような場所があるが下に石垣等が見えるでもなく、城跡とは判別しにくい場所であった。遠目に見て、それらしいと思われる地形があるだけだった。
帰り道、私は三谷城跡の案内道標を設置するため市への寄付を申し出たいとIさんに相談した。地元にもほとんど知られていないが、鎌倉時代から戦国時代の歴史の記憶を残す場所をぜひとも残してほしい、案内道標はその一歩だと思ったのである。
三谷城主の塩田氏は、岩倉城の三好一族の三好靖俊の家老を務めた後、織田信長が本能寺で討たれた年と同じ天正10年(1582年)、高知の長宗我部元親の軍勢に脇城、岩倉城とともに攻められ、父子で籠城奮戦の末、落城してしまったため、記録はほとんど残っていない。できるなら、城郭の構えなどを調査記録する教育文化的事業を期待したい。さらには、三好長慶生誕五百年といわれる今年、阿波の戦国武将が活躍した大いなる時代を偲んで、三谷城、脇城、岩倉城の三城をVR再現するプロジェクトにとりかかってみたいなどと考えている。