三谷城について その2(鎌倉極楽寺を訪ねて)

三谷城の歴史をたどっていくと、戦国時代の三谷城城主だった塩田氏が鎌倉北条氏の末裔だったことがわかり、いきなり話が鎌倉時代にさかのぼることになったが、北条氏一族の北条重時が信濃の守護職を拝したのを機に、その子らが塩田に住むことがなったというのがこれまでわかったことであった。

その北条重時が鎌倉につくった寺が極楽寺であるということで、私の自宅の横浜に近いその寺を私は2022年の11月に訪ねてみた。鎌倉駅で江ノ電に乗り換えると、ずばりその名の極楽寺という駅があって、すぐ駅前に鄙びた藁葺屋根の門構えのお寺があった。中の本堂も時代を感じさせる古いつくりで、参道の奥にひっそりと建っている風情であった。案内板には「鎌倉唯一の真言律宗の寺。建立したのは、北条義時の三男の重時。重時は執権を補佐する連署まで務めた人であるが、政治に執着することなく出家し、その山荘に寺院建立を思い立ち、天正元年(1259)に造営を始めた。しかし造営半ばに重時は亡くなり、その子の長時と業時が父の志を継いだ。」と書いてあった。

さらに、鎌倉寺社めぐりのサイトには「重時の子らの代に招いた多宝寺の僧忍性は極楽寺で施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院をつくり困窮する人々を救済する福祉事業を展開しました。また高齢の牛や馬の面倒を見るなど大変な慈善家で医王如来と崇めらていました。」と説明されていて、寺の功徳の営みがあったことがわかった。

私は人の来ない本堂の縁側に腰をおろし、しばし過ぎゆく秋の時間を楽しむことにした。鎌倉には、建長寺や鶴岡八幡宮など大きな寺社があって人も多いが、極楽寺のように静かにひっそりとたたずむ寺もあって、私はどちらかというとこうした場所がいいなと思った。まして、三谷城城主の塩田氏の祖先の北条重時が創った寺ということで、大きな歴史の時間のつながりを体感できる場所であった。

私はこの寺を創建した北条重時についてはほとんど知識を持ちあわせていなかったが、鎌倉幕府の政治を支える要職にありながら、病人や弱者、生類を慈しむ事業を生涯最後の事業とし、子たちに受け継いで行った重時という人の人間性の大きさに思いをはせていた。土地は変わっても同じ志はどこかで受け継がれていったのでないだろうか。
調べると、重時には多くの子がいたが、重時を極楽寺流の祖として、塩田流、金沢流、赤橋流などの名家の分流を残したとなっている。信濃国塩田荘に行って居を構えたのが義政であった。義政は鎌倉幕府連署として8代執権・北条時宗を支える要職にありながら、36歳で出家を遂げ、善光寺に遁世して所領を没収された、とあるから、父と同じような生き方を目指していたふうにも見える。

これで、三谷城址保存プロジェクトは戦国時代からさらに300年をさかのぼり、1200年代の鎌倉時代にいたることになった。三谷城をめぐる時間の旅は、終わりのない旅のような気がしてきた。

この極楽寺のすぐ近くには、重時の兄弟で御成敗式目で有名な三代執権の北条泰時が創建した成就院があるということだったので、次回訪ねてみようと思う。

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